クリニック 名古屋ちくさヒルズ

理事長ブログ 名古屋クリニック

ママが入院した

奥さんが、入院した。胆石のオペが目的である。もともと憩室炎があり、時々腹痛があるのであるが、脂っこいもので、季肋部がいたくなった。CTをとると、胆石である。大小計3個石が見つかった。
私が以前入院した名古屋第一日赤に受診した。私の知り合いも多く、えらんだのであった。病室も、私の時と同じ個室であり、勝手が分かっているため、安心である。
オペは、ラパロのため、長くて一週間。病院食は、まずいことは、経験済みである。
入院前夜、美味しいお刺身を食べ、月曜日昼入院した。検査は全て外来で済ませており、ほとんどやることはない。
私も付き添いでついていったものの、手持ち無沙汰であったため、この際知り合いに会うことにした。
ちょうど大学時代顔見知りであった院長が病棟に来たので、つかまえて案内してもらった。副院長は、テニス部の先輩で、丁度病理をやっているので、よくよく見るようにお願いした。このように暇に任せて、旧知を温められるのはありがたいことである。
火曜日は、オペである。私が朝病室へ着くと、すでにオペの準備を完了し、スタンバイ状態であった。胆石なので、問題無ければ1時間程度で終了する。オペ室の前で、見送って、私は病室で待機する。待つこと約2時間。ストレッチャーで帰ってきた。酸素マスクはつけている。あとで先生が来て切除した胆嚢を見せてくれた。予想どおり、大結石一つ、小結石2-3つであった。炎症は適度にあったと思われる。
お腹にはドレーンが一本、抜糸なしで縫合してあった。
しばらくして覚醒した。痛みがあるからうまく喋ることはできない。それでも1ー2日は痛み止めを使って、そこそこ経過した。問題は、その後たんが出始めてからである。たんが絡むが、傷が痛くでうまく出せないのである。横をむかせて、拭き取ったりして、なんとか1-2日経過。4日ほどしてやっと楽になってきた。
その後は普通の経過であり、土曜日に退院となった。
本人は、傷の痛みは想像以上だったようで、ロキソニン手放せなかった。
痛みが結構続くので、オペが失敗したのか、下手なのではないか、と言っていたが、私が見たところ、問題無いと思った。
やはり患者さんは、医師とは異なった印象を持つものである、ということを改めて知った次第である。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

旅行の思い出

ポアロとは、いろいろなところに旅行にでかけた。山の別荘が最も多いのであるが、東京の家にも宝塚の家にも連れて行った。もちろん、家で留守番ということも度々あったが、一緒に出かけるのが大好きであった。
ポアロが1匹の頃は、車がセダンであり、彼は後の座席に乗って移動するのである。アーサーが来てからは、ワゴンになって、2匹ともゆったりと寝ていけるようになった。年齢とともに、車に上がるにが億劫になってきたようであるが、それでも車に上手に乗って出かけるのであった。山の別荘は、八ヶ岳と蓼科であるが、八ヶ岳が最も多く連れて行った。大抵決まったコテージに宿泊し、彼は慣れた散歩コースを一人で散歩するのであった。山のコースなので、彼が出かけて帰ってくるまでには結構時間があった。時折、夜中に散歩に出かけていき、いつのまにか帰ってくるのである。
山の散歩コースには、信玄の某道とか御柱の道、などがあり、人気がほとんどないので、彼はリードなしで自由に散歩するのである。この場合、家の近くと同様に、ゆっくりゆったり散歩するわけで、自然散歩時間も長くなるのである。
東京へは一度だけ連れて行った。小石川のマンションに滞在し、近くの公園や植物園を散歩した。銀座へも行った。土曜日だったために、歩行者天国であり、彼は銀座の街中をゆっくりと眺めながら散歩した。大都会でも全然平気であった。家族連れが寄ってきて、彼の頭を撫でて行った。彼も慣れたもので、いい子を装って振る舞っていた。
播豆のお墓参りも一緒に行った、お墓は、東幡豆の海沿いにあり、お墓参りの帰りには決まって海で遊んでいた。彼は、カールと違って、水は好まない。水泳もしない。水に入ってボール遊びもしない。したがって、海の中に入っていくことはない。ただ海辺を走ったり歩いたりするだけである。
宝塚へも時々行った、一度宝塚で裏山のトレッキングをした時、岩場をえりこさんが歩けなくなった。靴が合わなかったのである。ポアロは心配して、えりこさんのそばから離れなかった。
いろいろ出かけたが、眠る時は、私と一緒である。これはどこへ行っても変わらなかった。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

散歩の思い出

ポアロがいなくなり、これまで2匹を連れ立って出かけた散歩がなくなった。
散歩は、朝と夜の二回。朝は、ショートコース、夜はロングコースである。
2匹は、異なる年齢であるが、同犬種である。しかしそれぞれが異なった性格で、楽しみ方も好きな食べ物も異なっている。しかし散歩に関しては、2匹ともに大好きで、時間が来ると待ちきれないといった感じである。
2匹にリードをつけて歩くのである。アーサーが成犬に近づくにつれ、2匹に思い切り引っ張られ、足を踏ん張らなければ、圧力に耐えられない。ポアロは黒、アーサーはチョコ。2匹を連れ立って歩くのは、私にとって誇らしい気分である。行き交う人たちにも犬好きな人がいて、ごあいさつを交わしながら散歩を続けるのである。
ポアロの散歩は、歳を取ってからはゆっくりとじっくりと楽しむ、という感じになってきており、一箇所にとどまる時間が長い。したがって、アーサーと私は、ポアロのお楽しみが終わるのを手持ち無沙汰に待っているのである。
アーサーが来る前は、ポアロはよく迷子になった。特に夜名古屋大学の中を散歩している時、少し離してやると、知らぬ間に何処かに行ってしまうのである。
散歩コースはほぼ毎日同じであるが、彼が迷子になるのは、決まってノーベルロードと呼んでいる山手通りに近い場所である。私は、あちこち探して、家にも電話して帰っていないかを、確認する。そうこうしているうちに、名古屋大学の誰かから電話がかかってきて、ポアロは保護されているのである。大学の学生さん、職員さんには何度もお世話になっている。
ポアロは、しらっとした顔で私の方を見て、何が起こったのか、とでも言いたげである。
このように、ポアロには独自の散歩の楽しみ方があり、自由を自主性を好むという気性があるのである。この気性は、理解してしまうと、行動が予測できるようになるので、迷子になるということはなくなるのである。
しかし最も中止しなければならないのは、途中で物を拾って食べる習慣である。この習慣があるから、散歩時間が長くなるのかもしれないが、変なものを食べると、夜嘔吐や下痢で大変である。彼は、生きている間、体調が悪くて、医者にかかることは一度もなかった。そういう意味では、手間のかからない、良犬であった。私も、彼を医者に連れて行った記憶はほとんどないぐらいである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

ワクチン接種した

クリニックで要望していた医療機関向けワクチン接種の通知が3月になってやっと来た。

3月4月で2回の接種を終えると記載されている。

身元証明書や何か、数点当日持参するものが決められている。

医療従事者向けはファイザーワクチンが指定されている。上腕に筋肉注射となっているので、深くブスツと刺されることは覚悟していた。当日指定された時間に間に合うように準備をしてクリニックを出た。接種会場までタクシーで約5分、歩いても行ける距離である。会場についてしばらくして、身分証明書を持ってくるのを忘れたことに気がついた。どうしようかな、と考え、職員に電話して持ってきてもらうことにした。都合の良いことに、走っても10分の距離だったようで、楽々時間に間に合った。

入り口で並んでいると、列が進み、まず事務手続き(身分証明書など)、その後、医師の問診があり、最後に看護師による注射である。看護師さんの注射は、全く痛みもなく、終わった人たちは、別室に座って15分経過観察である。

接種当日は、接種部位の痛みが丸一日あり、アイスノンや湿布で冷やした。熱は翌日微熱があったが、大きな副作用はなかったのである。

2回目の接種も同様におこなわれたが、発熱、頭痛、倦怠感は2、3日続いた。

私どものクリニックでは、若い医療スタッフも同時期に接種したが、彼女は高熱と頭痛関節痛にしばらく悩まされていた。若い人の方が、副作用は強い印象を持った次第である。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

ワクチン狂想曲

今年に入り、一旦収まっていたコロナ感染症が東京、大阪を中心に爆発的に増加している。東京オリンピックの開催を控え、何とかワクチンを普及させてコロナウイルスを抑え込もうという国の方針で、ワクチン接種が65歳以上の高齢者と医療従事者から開始された。私も、3月に指定の医療機関で医療従事者枠でワクチン接種を受けた。この話は、次回にする。

新聞マスコミは、ワクチン報道で一辺倒である。感染者が何人で、ワクチン接種者が何%。政府の答弁もワクチンの入荷状況がどうで、ワクチン担当省がどう、といった具合である。ワクチンが普及するまでは、感染者の増加、重症患者数の増加は、ある程度予想されることではあるが、ワクチンがなく、治療薬もない状態では、クリニックでコロナ感染患者を積極的に受け入れるのは、難しいと考えて、オンラインコロナ診療に力を入れている。クリニックでのワクチン接種は、名古屋市に申請を出しているが、ワクチンがいつ入荷するかは全くわかないそうである。巷でワクチンワクチンと騒いでも、クリニックでは、抗体検査、PCR検査を細々とやっているが、名古屋はまだ感染患者は少ないのでは、と感じている。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

寝室の思い出

誰もいない寝室に入ると、愛犬との様子が目に浮かんでくる。愛犬ポアロは、本日2/10 2:00 に、息を引き取った。11歳7ヶ月であった。私の腕の中で息を引き取ったので尚更愛おしさがある。
この犬は、我が家に来た初めてのフラットコーテッドリトリバーで、前飼っていたゴールデンに比べて、はるかにやんちゃで快活である。それでも私たちに対する深い愛情があるようで、ロイヤリティーに富んだ面白い犬種である。
最初に来たのは、マミーのママが亡くなった翌年3月、7ヶ月であった。結構立派になっており、おしっこうんちもしつけられていた。それでも車に乗せて、蓼科から名古屋で向かう途中、車の中で脱糞し、後々匂いをとるのに苦労した記憶がある。
こうして、我が家でポアロという名前をもらい、愛情を一身に受けることになった。我が家は英語で犬に命令することになっているので、ポアロにも英語でしつけをした。理解力は抜群に良かったと思う。しかもやんちゃではあるが、粗野な振る舞いはなく、優雅な英国紳士になるであろうと想像した。
我が家の主寝室は、クイーンサイズのベッドである。元々私たち夫婦が寝る場所であったが、いつの日にかポアロが間に割り込むようになった。ご存知のように犬は、何時間おきにか寝返りをうったり、寝る場所を変えるのである。マミーは、そのたびに起こされ、そのうち寝不足になってしまった。そういうこともあり、マミーは、三階のベッドルームへ引越しをし、晴れてベッドは、私とポアロだけのものとなったのである。
ポアロは、ベッドでおやすみし、時々部屋のどこかへ移動するが、早朝目を覚ますと、必ず頭の上で寝ているのである。私の頭を抱えるようにいる。わたしはポアロの前足を頭の上で触り、気がつくのである。
そのうち彼はベッドから降り、私のそばによってきて、ペロペロ舐めまわす。このペロペロ攻撃で私は起きるのである。
一月ほど前から、夜中に1階のベッドに来る際に、外でワンワン呼ぶようになった。外には5段ほどの階段が2か所あるが、この階段の上で立ちすくんでいる。彼の首輪を持って誘導してやると、勢いつけて階段を駆け下りるのである。ちょっと白内障が進み、暗闇で見づらくなっているようであった。最後の1週間は、後左足が痛くて、歩くこともできなくなり、べっどのそばに布団と毛布をひいて、その上で一晩過ごすことになった。おしっこがしたくなるとワンというので、後ろ足を支えながら外まで歩かせ、おしっこをするようになった。
最後の日には、おしっこもしなくなり、朝一度二日間でなかったウンチをなんとかやったら、その場にへたり込んでしまった。
私の睡眠は、常にポアロと共にあり、ポアロは私の体の状態をよく知っていた。私が調子が悪いと、私のそばを離れず、私と共に夜を過ごしてきた。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

ポアロが死んだ

えりこさんのママが亡くなった月に生まれたポアロが、えりこさんが生まれた翌日に死んだ。賢くてやさしく思いやりのある犬であった。私たちが一緒に暮らした犬たちの中で、ダントツ頭の良い犬であった。彼が唯一我を忘れるのは、食べる時だけであった。
彼は、えりこさんのそばにいつもいて、えりこさんの心を支えてくれた。
彼は、11歳7ヶ月超えているので、十分におじいちゃんであるが、これまでは病気らしい病気をしなかった。飼い主の手を煩わせない、お金のかからない犬であった。
なくなる数週間前より左足をちょっと引きずるような時があり、散歩を嫌がるようになった。とはいえ、1日休むと次の日には元気に散歩に出掛けた。
左足がつかえなくなったのは、ほんの1週間前からである。三本足でケンケンするような感じが見られた。元々体表のあちこちに腫瘍が出現してきたし、股関節疾患を持つ犬種なので、腫瘍か、股関節かな、と考えていた。数日前左足が腫れているのに気がついた。それでも食欲はあり、元気も非常によく、心配はしていなかった。
2/9は、えりこさんの誕生日であった。前日の夜から体がえらそうで、動きが鈍くなっていた。夜ヒンヒン鳴くので、おしっこかな、と思って、寝室から外へ出してやった。しかし、立っているのがやっとであり、とてもおしっこどころではなかった。
朝、寝室から庭の階段を上がり、リビングにやってきた。しかし、いつもはかぶりつくように食べる朝ごはんに見向きもしなかった。ヨーグルトだけは飲むことができた。
婦長に電話して、クリニックの駐車場を開けてもらい、クリニックから抗生物質や点滴などを持ち帰った。夕方から夜になるとさらに状態は悪くなった。夜の10時ごろ、下顎呼吸となり、もうダメかと思った。腫れていた左後ろ足を試験穿刺してみると、血の混じったウミが出てきた。ナイフで大きく開けるとウミが溢れ出てきた。この時点で、初めて左後ろ足の蜂窩織炎プラス膿瘍と診断、洗浄とドレナージを行った。全身の敗血症も合併していたであろう。この処置で、一時水を飲むぐらい持ち直したように思われた。
しかし、そこから徐々に状態は悪くなり、時折私の方へ向かってワンワン泣いた。
私も付き添って寝ていたが、2/10 2:00に2回の嘔吐ののち、呼吸停止となった。

彼は、マミーのママとカールが続けて亡くなった翌年3月に、7ヶ月でやってきた。ブリーダーさんの娘さんが可愛がっていた彼をもらい受けたのであった。いたずらっ子であったが、最初から聡明で、優しい犬であった。ただ、幼い頃は、少し目が悪く(弱視か)、突進してきては、私たちの足にぶつかった。また、右停留睾丸があり、右睾丸が、将来腫瘍化する危険性について指摘されていた。しかし、結局死ぬまでオペなどは一度も受けなかった。
大きな怪我や事故、病気もなく、私たちの手を煩わせない子であった。
日頃は、優しくておっとりしているのであるが、いざ食べ物が見せられると、俄然戦闘態勢に入り、盛んにくれくれコールをするのであった。
彼を連れて、いろいろ旅に出かけた。一番多いのは、八ヶ岳、蓼科の別荘である。別荘に行くと、近くの山を駆け回り、時折どこかに行ってしまい、なかなか帰ってこないこともあった。東京、京都奈良、宝塚にも行った。東京では、マンションに泊まり、銀座を共に歩いた。京都では、旅館の階段を嫌がり、結局車の中で寝せることになった。
そうそう新穂高ロープーウェイにも乗り、アルプスの絶景を堪能した。
私たちが、出張するときには、一人でうちの留守番をした。もしかすると、一人で留守番した時間の方が長かったかもしれない。私たちは、二人とも昼間は働いているし、出張なども多いので、彼が家を守るのである。彼は、慎重で頭の良い犬であるので、私たちは安心して家を空けることができた。
彼との日課は、朝一番ベッドサイドでのペロペロ攻撃に始まる。
私の顔を舐め回すのである。早く起きろ、ごはんが食べたい、というサインである。大抵起床時間より1時間程度早いので、私は、布団に潜り込んで彼の攻撃をかわす。この攻撃を彼が何回か続けているうちに、私がベッドから起き上がるのである。私は、その後台所で、彼の朝ごはんの準備を始める。ドッグフードにチャム缶を入れ、時折ヨーグルトを混ぜて水を入れる。ピタッとそばについて、おすわりをしている。wait, goの合図と共に、ご飯にかぶりつくのである。食後まず果物の端をもらい、次に大根やキャベツを副食として食べる。
この間、私は、ヒト用にミルクを沸かし、紅茶を入れる。そしてパンを焼き、最後におかずを作る。彼はどんなものでも美味しく食べるが、中でも卵とパンは好物である。ということで、私たちはゆっくりと朝食を楽しむということはないのである。
散歩は、朝と夜に決まっている。朝は、ショートコース、夜はロングコース。ショートは町内を回りながら、公園でゆっくり。ロングは、名古屋大学構内をのびのびと畑や山に入りながら1時間程度回ることにしている。夜の散歩に満足すれば、水を飲んで、勢い良く私のベッドへ潜り込んでくる。ベッドへ潜り込むと、とたんにバタンキューである。
以上のような生活を11年以上続けてきており、彼は私の一部分のようなものだ。この間、彼も歳をとり、3年前にアーサーという幼犬がやってきて、後輩に教える立場になった。2匹との生活、2匹での生活が習慣として出来上がり、今まで続いてきたわけである。

彼は、私が最期を看取ることができた初めての犬であった。彼は、私の腕の中で息を引き取った。悲しいけれど、彼が息を引き取る瞬間まで共に過ごした幸福感が同時に存在する。
明日、彼は、荼毘に伏され、お骨は自宅へと持ち帰るつもりである。前代のカールとともに、お骨はベッドルームに置かれる。私のいるベッドルームは、私の愛犬たちの思い出で一杯である。私の生活は、現在と過去がベッドルームで交錯するのである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

山でラグビーワールドカップ決勝を見る

11月のはじめ、蓼科へ今年最後の旅行へ出かけた。毎年、避暑として、年に数回出かけることにしており、特に夏休みは蓼科にいることが多い。名古屋より10度程度は気温が低いので、極めて涼しいのである。お気に入りの女神湖、御柱の道がすぐ近くにあり、トレッキングには最高である。11月にもなると寒くなってくる。朝晩は、かなりの冷え込みである。ちょうど蓼科に入っているときに、ラグビーワールドカップの決勝戦があった。

イングランドと南アフリカの対戦である。南アフリカは、日本が決勝トーナメント1回戦であたり、負けた相手である。場所は、横浜。観客は70000人を超えたらしい。

私はラグビーファンではないが、今回の日本で開催されたラグビーワールドカップでは、マスコミが大々的に取り上げたこともあり、日本戦だけではなく、テレビで観戦することになった。

ラグビーは、アメフトと異なり、プロテクターがほとんどないため、文字通り肉弾戦である。フォアードは、思い切りぶつかり、音が聞こえてくるようである。

私は、小学校の時の担任がラガーマンで、ラグビー経験があるが、相手をタックルする時、怖かった記憶がある。このように勇気を持って恐怖に打ち勝つ武道のような性質が、このスポーツの特徴であろう。

また、ラグビーそのものだけではなく、日本のおもてなし精神が、世界の人に喧伝されたのも、今回の特徴で、来年のオリンピックに向けて、よい予行演習になったのかもしれない。

決勝戦は18:30キックオフで、ホテルで急いで夕食を食べ、別荘へ引き返した。この試合は、南アフリカが日本戦同様力を発揮し、イングランドに快勝した、レベルの高い一戦であった。

80分間の試合に、山に来た時に、たまたま遭遇したのは幸運であった。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

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