クリニック 名古屋ちくさヒルズ

理事長ブログ 名古屋クリニック

価値があること?

ひとは時々思いもかけないものに執着する。昨日の新聞に、ウィンブルドンテニスの公式タオル(選手が試合で使っているもの)が非常に人気があり、選手がたくさんのタオルを持ってかえって、お土産にしている、という記事が載っていた。確かにウィンブルドンのタオルは特注品だそうで、デザインと色合いは同じではあるが、「WIMBLEDON2016」と年度が刻まれているのである。このタオルは選手が使う以外には、オールイングランドローンテニスアンドクローケークラブにある売店でしか売っていない代物である。その他ではどこでも手に入らない。ネット販売もない。売店では4、5千円はする高級品であるが、知るヒトぞ知る貴重な逸品である。余談ではあるが、その他に何かお土産にいいものはあるかというと、私見ではボールであろう。このボールも年度ごとに異なっており、その年のものはその年しか、しかもクラブ内の売店でしか手に入らない。実は、私も数年前にロンドン近郊で会議があったおりに、ウィンブルドンに立ち寄って、タオルとボール(その他にバック、シャツ、リストバンドなど)を買い込んだ。ほとんどがお土産として消えていったが、タオルとボールだけはひとつずつ大事に保存している。時折ながめてはひそかにほくそえんでいたのであるが、今回新聞記事で私が大事にしてきた品物がウィンブルドンに出場する選手たちも大事に持ってかえっているのが判明し、驚いた次第である。考えてみれば、選手たちはテニスコートで無料でタオルを使えるのであるから、それらを持ち帰っていても確かにおかしくはない。とすると、決勝まで7回以上コートに立っているスーパースターたちは、より多くのタオルを持ち帰る機会があるわけである。宅急便でまとめて自宅におくっている選手もいるかもしれない。では、ボールはどうか?ボールは何ゲームかであたらしく決められた数だけ入れ替えている。仮に両方のポケットに1個ずついれて、ボール入れ替えのコートチェンジの時に、ベンチでバックにしまったとするといくつのボールが持ってかえれるのかな?などというばかげたことを考えるのも一興であろう。テニスに興味がないひとにはどうでもいいことであろうが、自分が興味ある何か、に置き換えて考えていると、以外と同様の事象がありうる。ひとは、思いもかけないことに執着し、固執するものである。それが、どの程度世の中に重要かはわからないが、今回のように新聞記事になるように、だれかと共有できる事象であることが判明した時、自分の中では何かしら重要度があがるものである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

走りたい?

私は、今年桜が咲くころから一度も走っていない。実は、昨年末テニスの試合中に、左足の下腿にビッと痛みが走った。その時は、肉離れをやった、と思った。足を引きずって家に帰り、早速シップをした。これまでにも肉離れはあちこちやっているので、1—2ヶ月で直るであろう、と思っていた。1月ほど経って、よくなった感覚があったので、テニスを再開した。2 回目ぐらいのとき、同じ場所にピリッと痛みが走った。このようなことを3回繰り返したので、一度MRI を撮ってみることにした。MRI 診断の結果、肉離れではなく、アキレス腱断裂であった。予想しない結果に驚いて、すぐに整形の先生に見てもらった。「林先生、ここがへこんでいるよ。ここで、切れたんだね。」私がアキレス腱はここ、と思っていた場所より、7センチぐらい上であった。ネットでいろいろ調べてみた。すると、アキレス腱というのは、結構広範囲であること、再断裂しやすいこと、が判明した。一般的には、アキレス腱が完全に断裂したら、手術であるが、わたしのように部分断裂の場合、選択に困るようである。結局のところ、私は、アキレス腱部分断裂を肉離れと誤診し、しかも数回再断裂を繰り返した、ということが明らかになったのである。MRI を撮ったのが3月であるが、6月の時点でまだ完治していないのが現状である。やっと歩き走りのような、走るまねごとができるようになったところである。走るためには、片足でジャンプすることができなければならない。その前提として、片足でつま先立ちができなければならない。しかもつま先立ちの角度をいろいろ変えてできなければならない。歩き走りといったのは、いわゆる足を引きずりながら走るようなものである。これは左足のジャンプ力がないから、ということになる。このように、走るという動作には、アキレス腱ひとつとってもこまかなメカニズムがある。たまたま私はアキレス腱を切ったために、そのリハビリの過程でこのようなことが判明したのである。すると、私のよく知っている先生も、走ったりできなくなった、と言う。この先生の場合、原因は心臓にあり、走ると不整脈がでるから、ということである。走るということはひと(動物にも)に与えられた権利である。この権利を行使できない人たち、つまり高齢であるとか、病気をもっている、とか。考えてみると、走れないひとは、かなり存在するということがわかる。ひとが、だれでも基本的にうまれながらにしてさずかり、喜びや楽しみをうみだすことができうる、走れる能力は、貴重な財産である。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

台所から鰻が消えた?

出入りの魚屋で鰻を焼いてもらった。その日は、ひらあじの刺身とゆであがったワタリガニが夕食のねたであったので、鰻は翌日にしようということになった。包みには、焼きたての鰻一本が入っていた。確か、新聞紙かなにか簡単なもので、ポリ袋にはいっていた記憶がある。

我が家は3階建てで1階に私、2階(ここがダイニングキッチンリビングとなっている)に、愛犬フラットコーティッドのポアロ、そして3階に妻が寝ている。早朝ポアロは目が覚めると、私のベッドに入ってくる。これは習慣である。いずれにしてもポアロは2階で寝る。深夜、確か3時頃、妻が私を呼んだ。下で、つまり2階のあたりで、大きな物音がする、という。2階は、普通の家の1階であるので、玄関があり、勝手口から裏庭に出ることができる。とりあえず、私は2階にあがり、点検をすることにした。ポアロは、いつものごとくソファの上から私を見ている。リビングダイニングには異常がない。次に台所である。異常がないように見えたが、何かあったものがないような気もした。何かはわからなかった。勝手口から外へ出た。暗いので定かではないが、さしたる異常はない。しかし勝手口のサンダルの間に醤油のようなものがはいった容器が落ちていた。その時は、それが何かわからなかった。(あとになって鰻のタレであることが判明した)

翌日は、シルバーから草取りおじさんが早朝やってきた。このおじさんは、非常に優秀な職人で、一日仕事をすると、庭からきれいに草がなくなる。信頼する職人さんである。私たちは、草がいっぱいになると、電話してきてもらう。ポアロに朝ご飯を食べさせ、私が新聞を読んでいると、妻が起きてきて、台所に入った。次の瞬間、妻が叫んだ。「鰻がない」「キッチンの上においておいた鰻がなくなっている」そういえば、そのようであった記憶がわたしにもあり、二人で冷蔵庫やらを探したが、やはりない。我が家は、夜、勝手口が開けっ放しにしてある(ポアロが夜中でもおしっこに出て行けるように)ので、なにものかが外へもちだしたということか?しかし昨夜ポアロが吠えたり、異常なそぶりを見せなかった。きつねにつままれた感じがしていた。この話をお昼の時間に、おじさんにした。するとおじさんが驚いた顔で、「そういえば裏庭にポリ容器の破片が散乱していたよ」。そこで、裏庭を探索した。すると、裏庭と隣家との境にある塀の隙間から50センチ向こうにポリ袋があった。鰻がはいっていたやつだ。ポアロが鰻を持ち出して、わざわざ隣家へ入っていくとは考えられない。以上から推測すると、夜中に何か、おそらく猫が侵入し、鰻を盗んで、塀の隙間から隣家へ逃げたのであろう。何故猫かというと、ポアロは、人と犬に対しては、大抵の場合吠えるのであるが、どういうわけか猫に吠えるのは聞いたことがないからである。このあたりには、狐やイノシシはいないので、おそらく猫ということである。結論として、深夜猫が我が家に侵入し、鰻を見つけて、ポリ袋ごと咥えて裏庭に逃げ(この途中鰻のタレを落としていった)、そこでポリ容器をばらばらにし、ポリ袋と鰻を持って隣家へ逃げていったが、ポアロは吠えたり騒いだりしなかったということであろう。しかしこの結論が正しいのかどうか、もう少し検証する必要があるかもしれない。

この出来事から私は次のように考えた。まず、愛犬がなにを考えて毎日を過ごしているのか飼い主にはわかっていない、ということである。今回の件は、ある意味、ポアロと鰻を盗んだ猫とは共犯のようなものである。ポアロは、鰻を盗む猫を見ていたはずであるが(それくらいの鋭さはもっているので)飼い主にわかるような反応を示さなかった、ということは見て見ぬ振りをした、ということになる。これはある意味共犯である。そうなれば、そうすることでポアロにもメリットがある、ということであろう。たとえば、猫から分け前をもらう約束をしていた、とか猫に弱みをにぎられていた、とか猫に好意をよせていた、とか。そうでなければ、人間社会では考えられない事象であろう。もしもどれでもないということであれば、ポアロは人間とは全く異なる思考回路があって、今回の一件に対処したことになる。

私たち人間は、犬を我が子のように愛し、かわいがる。そのベースには、愛犬は同様の愛情を返してくれるであろう、という約束事を前提として考えるからである。また、愛犬が病気になったときには、病院に連れて行き、検査をし、薬を貰って、飲ませる。これらの行為は、犬であろうともひとと同じ生き物であり、同じようにしなければならないという、人間の思い込みがあるからである。

しかし今回の一件から学んだことは、考え方は生物により(もしかすると無生物もはいるかも)極めて多様であり、私たちが思っているようにはいかない、ということである。思ったようにいかなくても、それは当然のことなのかもしれない。私たちの思いをおしつけ、もしくは強要することこそが、自然ではないのである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

死ぬということ?

近くにいるひとが亡くなった。そのひとは、大学が同じで、同じ専門領域で、私が留学したときに、その大学にいた。体格がよく、サングラスをかけて歩くと、その筋のひとと見間違うようで、皆さん避けて歩くような風貌であった。そのような見かけであるが、きわめて繊細な心を持っており、他人に対してきめ細かな配慮ができた。ただし、そのように思われるのは絶対いやで、シャイな性格なので、一見そのような人には見えなかった。大学を出てから、ずっとアメリカで仕事をやってきた。移植外科医として、昼夜たがわず働いて、その世界では有名な人間になった。しかし60になったとき、突然引退宣言をした。これまでやっていたあらゆる役職から身を引いた。仕事場であった東海岸から西海岸の有名な高級住宅地に引っ越して、毎日ゴルフ、釣り、パーティー、と悠々自適な生き方をしていた。時々日本に帰ってきては、全国にいる友達のところをまわり、つかの間の交流を楽しんでいた。豪遊といってもよいものであったが、しかしその前後のきめ細やかな配慮をかかさなかった。わたしが妻と西海岸の家に行ったとき、外洋でつり上げた魚を自ら調理し、刺身や煮魚、焼き魚を振る舞ってくれた。台所で包丁を持ってさばく手つきは、さすが外科医であった。こまかな刃先の使い方など素人のものではなかった。最期も突然訪れた。いつものように皆で酒を飲んで、次の日ゴルフをやるために、西海岸の、とあるホテルに宿泊した。翌朝ホテルの部屋のバスルーム付近で亡くなっていたらしい。派手な葬儀を好まないひとであった。そのかわり、70になった時に、各地でド派手な生前葬をやった。皆に料理と酒を振る舞って、おもしろおかしく葬式をした。そのようであるから、「死んだときには、なにもするな」と遺言のようなものがあったらしい。生きるのは大変なことであるが、死に方も大切である。ひとに迷惑をかけずに思い出を残して死ぬのは難しいことだ。ひとは60を超えると、いつ死ぬかはわからない。死に備えて、準備をすべし、というが、いつから準備をすればよくて、どの程度で準備をおえられるのかは、わからない。辞世の句というのがあるが、たしかに死後の世界に自分の足跡をきざむ、という意味はあるであろう。辞世の句にかわる、何らかの目に見えるものを残すことが重要だ、と考える人もいる。そうすると、ひとには自分の生きた証を残したいという自己表現型の精神と、自分の生きた後始末をきちんとすませて、他人に迷惑をかけないようにしたい、という自己消滅型の精神があって、このバランスが終末感を形成するのかもしれない。このブログは、親しい先生であり知人の逝去に対して、少し混乱する頭で書き留めたものであり、皆さんには意味のないものかもしれない。

先生、さようなら。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

健康食品を使っていますか?

最近健康ブームにのってマスコミでは健康食品の宣伝が毎日のように行われている。テレビでは、有名なタレントさんや俳優さんが、商品のよいことをいろいろとしゃべり、最後に商品名が大きく出るのである。同じような間接的な効能をうたう健康食品がたくさん宣伝されており、どのように区別すればよいのかさっぱりわからない。中には、特定機能食品であるとかなになに学会が推薦とか、いろいろな文句で差別化をはかろうと努力しているようである。このように数多くの健康食品がマーケットで見かける、ということは、国の許認可の基準がゆるい、ということであり、そのかわりに高血圧に効くなどの、直接的な表現での効能を記載できないということになっているようである。しかし、ユーザーにとっては、同じような健康食品の中でどのように選択すればよいのか、は問題であって、大抵の場合、ネットなどでの意見を参考にしながら、メーカー名と価格を天秤にかけて、選択しているのではないだろうか?今後、日本の保険制度が崩壊し、皆保険で医療を受けることができなくなる時代はすぐそこに来ている。その場合、自由診療が拡大し、自分の健康は自分で守らなければならなくなる。ひとによっては、薬ではなく、健康食品で、という人もでてくるであろう。その場合、数多くある健康食品の中で、どれを選べばよいか選択基準がないようでは、とても健康食品を信用することはできず、皆保険からの転換は不可能である。今のうちに、健康食品の中で、科学的な根拠のある選択基準を確立しておいた方がよいのではないか?この科学的な根拠を示す非常に有効な方法が臨床試験である。臨床試験には、臨床研究と治験がある。新薬の許認可を得るために、創薬企業が、厚生労働省と PMDA の指導を受けて、実施するものが治験である。この治験は、最近ではグローバル治験といって、世界で同時に治験を開始するパターンが主流となっている。この治験を実施するためには、莫大な資金と相当な期間を必要とする。というのは、有効性を科学的に的確に評価するための多くのパラメーターを要求され、多くの人材を投入して、治験を実施するからである。健康食品の場合、そこまで厳密なデータは必要ないということであれば、臨床研究という形でおこなえばよい。臨床研究であっても、科学論文にまとめることができれば、どの程度の価値があるのかは論文のインパクトによって一目瞭然である。日本の臨床研究は、ディオパンなどの薬におけるデータ改ざん問題で国際的な信用を失っており、国は臨床研究のルールを厳しくしようという動きがある。つまり、欧米のように治験と同様に GCP 基準に準じたレベルに引き上げようということである。しかし、そもそも GCP 基準に準じるということは、臨床研究データを治験に組み込むことを想定しているということで、この基準を健康食品に適応するのは、そぐわない。そうなると、健康食品用臨床研究指針なるものを別途定めて、臨床研究を実施し、科学論文のインパクトによって、健康食品のグレードを定めて、ミシュランの星のように星マークをつければ、よほどユーザーにはわかりやすいのではないか?

今後このようにわかりやすい健康食品のあり方を学会等で議論し、NPO や財団のような非営利団体が、中立的な立場で、星マークを発行するという体制を構築してもらえれば、健康食品を使ってみたくなるであろう。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

がんは恐ろしい?

がんは、恐ろしい病気と考えられている。たくさんのひとががんで死んでいるし、最近では死亡原因の3分の2程度はがんによるものである。ひとつには、がん以外の病気が医療技術の進歩により直るようになってきて、死亡率が急速に減ってきているが、一方がんではそこまでではない、というのが要因であろう。がんの治療法としては、手術、抗がん剤、放射線が一般的であるが、最近免疫療法が加速度的に進歩し、第4の治療法として認められている。将来予想として、免疫療法が抗がん剤にかわる治療法になると予測する報告もある。実際、私が外科医になったばかりの頃は、消化器癌のすべては早期の段階で治療しない限り、予後が悪く、いろいろなといっても限られた方法論の中で、手を尽くした治療をやっても、早期に亡くなってしまう場合が多かった。ところが、最近では、治療法のバリエーションが格段に広がり、進行したがんであっても、長期に生存できるようになってきた。膵臓がんなどは、手術が成功しても、半年も生きることができないケースが多かったのが、何年も生きることができるようになっている。このように医療技術の発展で、がんは恐ろしい病気ではなくなりつつある。では、安心できるのか?というとそうでもない。新しい抗がん剤では、年間2000万程度の維持費が必要、というものがどんどん出現している。新薬の価格は、科学技術の進歩とともに上昇する傾向にあり、TPP で特許期間が短くなるとさらにこの傾向が加速するであろう。そうなると、現在皆保険制度でがん医療費は、保険カバーにより安くすんでいるが、超高額ながん医療費の時代になると国の財政負担が急増し、国民負担が増える可能性もある。海外ではよく聞かれるが、がんによる家計破綻とか医療格差といった問題は、遠くない将来日本でも出現する。すでに保険適応にないがん治療法では、このような問題は起こりつつある。この際に、有効なセイフティーネットは、民間医療保険である。しかし、どうも民間医療保険というのは、保険金がおりるための適応が厳しく、必要な患者に必要な保険金がおりるとはいかないようである。がんに対する恐ろしさは、医学的な問題からお金や保険といった社会的な問題にシフトしつつある。このような新しく出現したがん不安に対して、解決するための処方箋はあるのであろうか?

整理すると、将来のがん不安が起こる原因として、1)超高価な医療技術、2)保険制度の崩壊、3)民間医療保険への不信感、となる。これらはどれもこれも結構大きな問題であるが、しかしながら的確な政策と民間努力によって十分に解決可能である。今のうちから、予想されるがん災害を防ぐように上記への対策を皆さんで話し合うべきではないであろうか?

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

セルフメディケーションに未来はあるか?

セルフメディケーションという言葉を時々耳に挟む。市販薬、一般医薬品、健康食品を使うことで、自分の健康は自分で守りましょう。というものである。厚生労働省も最近、医療費削減を目的にセルフメディケーションを推奨する動きである。しかし、ただ太っているからとか疲れやすいから、とかいう理由で使うのではなく、ドラッグストアや街角ドラッグで簡単な検査を行って、HbA1cや中性脂肪、コレステロールを測定し、薬剤師さんが説明することで、人々に購入を促すというイメージを描いているようである。積極的に推進しようという人がいれば、慎重にするべきであるという方々もいる。もともとセルフメディケーションは、健康食品や市販薬の販売促進のような意味合いで作られた用語であるように思うが?そもそもお薬は、医師の処方箋によって、薬剤師が患者に出すもの、と考えられ、一方古くから民間療法なるものが存在し、代々言い伝えで民間処方のようなものが存在したことも事実である。しかし今後、創薬などの医療技術開発を日本でしっかりやって、グローバル展開をするという構想が国にあるのであれば、セルフメディケーションを医療費削減のためと考えるのではなく、次世代健康医療技術の開発を推進するため、と位置づけるべきではないか?(財)グローバルヘルスケア財団は、自己医療学会という団体を支援している。この団体は、「自分の健康を自分で守るために、新しい診断治療技術を開発するとともに、数多くのセルフメディケーション技術に科学的な根拠を与えるための活動を行う」という理念を持っており、その中で自己医療基盤技術の開発、と臨床試験による科学的根拠を有する自己医療技術の確立、および学術集会をとおした情報発信を行っている。つまり、従来のセルフメディケーション技術には、健康食品や、市販薬が数多くあるが、どれも科学的根拠が乏しいので、安心して人々が用いることができない。このようないい加減なセルフメディケーション技術は国民にも世界からも信用されないので、どこに出してもはずかしくない技術を作り上げましょう、ということである。自己医療をとおして、新しい健康医療技術が診断にせよ治療にせよ、生まれてくるということは、日本の健康医療技術をグローバルに展開し、アウトバウンドを促進する面からもきわめて重要と考えるが、いかがであろうか?ウェアラブル、物流ネットワークとジョイントするときわめて面白い取り組みになると考えられるので、是非皆さんにはクリエイティブにさまざまなアプローチについて議論してください。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

日本の保険はどうなるのか?

日本は、皆保険制度によって国民全員がどこの病院で治療をうけても、保険が適応され、3割の負担で医療が受けられるようになっている。身障者などは、程度に応じて無償まで段階的に決められている。しかも日本の医療水準、医師の技術はきわめて高い。このように高度な医療を安く受けられる国は世界中何処を探しても見当たらない。日本が世界に自慢できる医療制度である。しかし、最近新薬の価格はどんどん上昇しており、年間1千万の維持費を必要とする新薬もある。多くの国民は、国の保険以外に自分で民間医療保険にも入っており、いざという時にそなえている。たとえば、手術等で一千万かかる場合、自費で300万支払う必要があるが、この医療費を自分で入る民間保険でまかなうのでる。日本の民間保険は、1種:生命保険、2種:損害保険、3種:それ以外、に分類されており、民間医療保険は3種である。1種は、生命保険会社、2種は、損害保険会社、が事業をおこなうことができる。3種の民間医療保険は、1、2種以外の会社が行うことができる。実は、この3種の民間医療保険は、アメリカの得意分野である。アメリカでは、民間医療保険会社の力が強く、その医療保険を採用する病院における医療内容にも介入する。自由診療社会であるので、このような市場依存医療もありうるのであろう。重要なのは、日本の民間保険領域で、アメリカの企業のマーケットシェアが極めて大きく、これが日米医療協定に基づいて生じた現象である点である。日本の医療費は、すでに 40 兆円に近づいており、数年以内に 50 兆円に近くなると試算される。日本の国民皆保険制度は、崩壊の危機に瀕しており、その場合、国民それぞれの自己責任による自由診療の拡大が想定される。当然民間医療保険の重要度が急激に増加するわけである。アメリカは、今後 TPP に従い、日本に医療解放を求めてくる。最大のターゲットは、民間医療保険であろう。万が一日本の医療費の半分が自由診療による時代が到来した場合、数十兆円マーケットが出現する。アメリカにとっては、日本で病院を開く必要もなく、民間保険で日本の医療をコントロール可能となる。すでにその兆候がある。最近日本郵政グループが、民間医療保険事業を郵政省に申請したが、認められなかった。その代わり、アフラックと提携し、アフラックの商品を販売することになったそうである。つまり、全国津々浦々にある郵便局ネットワークでアフラックの民間医療保険商品を販売するのである。アフラックにとって願ってもない提携となってしまったのである。この事象を見ても、アメリカから日本への圧力があったと考えるのが妥当であり、これは将来日本の自由診療マーケットの拡大を睨んでのことと推察できる。日本の民間医療保険商品開発力がどの程度かは知らないが、金融商品の一つと考えると、どうも開発力はアメリカと競争できうるレベルにあるとは思えない。国は、この領域の規制緩和を大胆に行い、優れた民間医療保険商品を開発する、いわゆる保険工学のような領域研究を積極的に行っていく必要があるのではないか?

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

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