クリニック 名古屋ちくさヒルズ

理事長ブログ 名古屋クリニック

遠隔医療は有用?

クリニックに遠隔医療のセールスが時々ある。たとえば皮膚科の患者さんの診察で、診断がつかなかった場合、デジカメで写真を撮ってメールすると、診断名と治療法がリアルタイムにかえってくるのである。リアルタイムといっても10分程度のタイムラグはあるのであるが、それでも患者さんには処方箋を持っていってもらうことが可能である。このように日常診療のサポートとして遠隔医療システムを企業が構築し、有料で提供するというビジネスが行われつつある。確かに不慣れな診療領域や、大病院でしか使えないような、たとえば病理診断のようなシステムを遠隔医療として使えるようになることは便利なことである。いままでであれば、患者さんを別の病院に紹介するとか、専門の先生にきてもらうとか、で対処していた。しかし、現在、おそらく将来はさらに、いながらにして高度な診療を行う、または受けるということが幅広い領域で可能となるであろう。医者の最も高度な技術が必要と考えられるオペでも、遠隔手術なるものが可能となってきている。最近出現したダビンチという手術支援ロボットは、もともと遠隔手術対応となっており、海外にいる患者を日本で手術することも可能である。このような技術がさらにすすむと、小さなクリニックにいる患者さんが小さな虫のような手術ロボットを体の中にいれると、どこか別のところにいる外科医が手術し、終了したら患者は帰宅する、というようなデイサージェリーができるようになるかもしれない。このように遠隔医療が日常的になると大病院と小さなクリニックの差別化がなくなるかもしれない。究極のところ、AI が発展し、シンギュラリティー(技術的特異点)を超えると、AI 搭載ロボットは、一台(または一人?)いれば、ヒトは病気を直すことができるようになる。

このような時代が来るかどうかわからないが、その方向の研究開発は間違いなくすすむであろう。究極のウェアラブルロボットである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

横断歩道?

私の家は、名古屋大学近辺にある。愛犬ポアロの散歩は、決まって大学周辺である。特に大学の東側にあるテニスコートや運動場のあたりはポアロのお気に入りである。テニスコートへは歩いて約5分程度である。小道をぬけると、片側1車線の道路にあたる。この道路をわたると、向こう側に名古屋大学がある。近所の住民や学生さんなど結構多くのひとが道路をわたる。この際に、皆さん横断歩道を利用する。両側ともにガードレールがあり、近くでは横断歩道しかわたれないからである。横断歩道には、歩行者注意のマークがある。皆さん、ここで車が通らなくなるまで待っているのである。

私は、この地に引っ越してきて10年以上となるが、この横断歩道で車が止まってくれたのはたった一度である。わすれもしない。患者を病院に運んで、戻る途中であったのであろう。サイレンはなっていなかった。まさか救急車はとまらないのでは、とも思っていたが。私の目の前で止まったのである。この時、はじめて横断歩道のありがたみを感じたのである。

では、なぜいままでほかの車は横断歩道で止まらなかったのであろうか?私がいつもわたる横断歩道は、ちょうど坂のてっぺんにある。

従って、どちらからにしてもドライバーには視界が悪く、歩行者は見えにくい。しかし見えにくければ、徐行するはずである。横断歩道には、歩道の印はついている。とすると何故歩行者がいるのに横断歩道でとまらないのか?横断歩道は、十字路の2メートルほどのところについている。道路をわたろうとする場合、ほとんどのヒトは、2メートル横にある横断歩道まで移動していないようである。私も同様で、十字路をわたろうとする。この行為が、横断歩道をわたる行為とドライバーからみなされていない可能性はある。

一般車は、横断歩道でとまらないのに、なぜ救急車は横断歩道でとまったのであろうか?当然、急いでなかったということはある。サイレンをならしていなかった記憶はある。従って、ゆっくりと交通ルールを守りながら走っていたのであろう。私は、ちょうど足を悪くしており、杖をついていたので、体の不自由な老人が横断歩道付近にいるので、ゆっくりとわたらせて上げよう、ということであったのかもしれない。

しかしいずれにしても、一旦停止してくれない車が多いことは事実である。確かに一旦停止マークはないので、その必要はないかもしれない。しかし、できれば横断歩道に歩行者がいるのであれば、ゆっくりとわたらせてあげてもよいのではないか。

私は、この自分の経験から、横断歩道にひとがいる場合、一旦停止するように心がけるようになった次第である。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

ロボットも人口のうち?

一家の構成は、一人暮らしの老人とロボット2人、と表現する時代がくるかもしれない。

生着密着型ロボットが多くの企業から開発されている。たいていは AI 搭載で学習能力をもつタイプである。「人と一緒に生活しましょう」、というふれこみであるから、家事がこなせるものがある。いわゆるペット兼コンシェルジェ、と家事手伝い、という2種類である。

現存するロボットであれば、ペッパーとルンバというイメージであろう。AI が格段に進歩する将来においては、多機能が搭載されるようになるので、上記のようなペットコンシェルジェと家事手伝いのロボットはいれば、十分一人で生活できるようになるのである。

今後人口はますます減少する。海外からの移住者を積極的に受け入れ、外国人労働者を増やしていこう、という意見もある。この場合、彼らが永住権をとれば、日本の人口としてカウントされることになる。ではロボットはどうか?これまでロボットは、記憶や計算はできるが、感情や直感力という人にしかないであろう脳機能をもつのは不可能、と考えられてきた。しかし、最近ロボットでも、感情や直感力を持つことができることがわかってきており、そうなるとひととロボットの違いはなんなのか?ということになる。確かに生殖機能による種保存能力はちょっとロボットに難しいかもしれない。しかし、ひとと協調しながらロボットが存在する社会があたりまえのようになると、なぜ人口にカウントできないの?ということになる。以前アイボという SONY ロボットの記事があった。SONY がロボット事業から撤退し、アイボの修理ができなくなったため、SONY の元技術者が修理専門会社を作って、たくさんのアイボを助けた、ということである。オーナーの喜ぶ顔が目に浮かぶ。ロボットであっても、長期間ペットのように接してきたオーナーにとっては、自分の家族のようなものである。無機的であるはずのロボットに対し、このような感情移入ができる、ということは、生活ロボットが出現して、はじめて起こった社会現象である。21世紀の社会は、ヒトとロボットは、コミュニティーを構成する一員として同格を得るようになるかもしれない。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

シンギュラリティーそれとも?

シンギュラリティーという言葉を最近よく耳にする。AI 人工知能に関係する用語である。簡単に言えば、人工知能が、人間の能力を超える境界点、というような意味である。このような用語が注目を集めていることこそ、AI が格段に進歩したということを意味している。AI が、人間の能力を超えるなどとは、想像できなかった。ところが、deep learning という手法が出現し、いつのまにか AIの能力が格段に発展した。ほんの2、3年のことである。それまで、AI がそれほど話題になることはなかった。私は、手術支援ロボットの研究開発を行っているが、まさか「支援」という単語が無用になる時代がくるとは想像していなかった。手術ロボットとは、ロボットが能動的に手術をするということを意味するので、医療現場ではすこしでも患者に対して危険性があることは許されない、ということで医師が完全にコントロールした状態でロボットを手術に用いる、という意味で手術支援と表現しているのである。このことは、ひとは、ロボットよりも信頼でき、正確な手術が可能であるこということを前提としている。ところが、シンギュラリティーなるものが真に出現するとなると、そのような前提が完全にくずれてしまう。外科医は、そばで見ているだけ、ロボットが正確無比に手術をこなしていく、ということになると、外科医は、ただのアシスタントになりさがってしまい、そのうちに無用になってしまうのである。科学技術が発展し、人類に貢献するのは望ましいことである。

私見としては、ひとの頭脳が、AI に劣るというのは、例えば計算とか記憶とかビッグデータと関係する機能に関してであり、感情や直感などの機能は、ひとのほうが優れた状態が続くのではないか。そうすると、ひとの脳と AI の融合したハブリッド AI がもっとも優れたものとなるかもしれない。

そして、ハイブリッド脳が、ウェアラブルのあらゆる生活空間に応用されるようになった時、興味ある時代が訪れると感じている。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

歌うということ?

6月のある土曜日、財団でいろいろな委員会の委員をやってもらっている先生方を招いて、自宅でバーベキューパーティーをやった。すでに梅雨いりしており、天気がどうか気をもんだが、どういうわけかこの日は朝から快晴だった。とても暑い日だった。我が家のアウトサイドパーティーは、まずインサイドでシャンパンとアペタイザーでしばし団欒し、コンロの火が十分おきたら、外(庭)へ移動。大量のサラダとともに、海産物、野菜、そして肉を楽しみ、最後にインサイドでチーズ、デザート、ケーキ、飲み物、という流れである。飲み物はそれぞれ飲みたいものを飲む。大抵の場合、デザートの際に、ピアノやバイオリン、クラリネットなどの演奏を楽しんでもらうという趣向がある。この日もおおよそその流れで、皆さんわいわいがやがや、日本語あり英語ありでデザートがでてくるのを待っていた。本日の演奏は、ピアノの中沖玲子さんである。中沖さんは、名古屋出身であり、現在パリと名古屋の往復生活。とてもチャーミングであり、かつ姉御肌。時折演奏をお願いするがダイナミックで繊細。皆さん思い思いの場所に陣取って先生のピアノが始まるのを待つ。中沖さんは、グランドピアノのスタンバイをする。初めて演奏を聞く人たちは興味津々。ピアノの一番前に陣取って今か今かと待っている。ピアノがはじまった。1曲目は、いつも先生が弾くショパンのノクターンである。と思った瞬間、愛犬ポアロがあちらからピアノの下にやってきてぺたんと座った。観客のほうをひととおりみまわした。演奏が始まると、曲に会わせて、首をあげ、じっと聞き入っているようであった。演奏が、高音にさしかかったとき、おもむろに声を発した。それからは、ひとしきり音楽にあわせて、歌った。曲が激しくなると、オオカミのように首を上にもたげ、ふしをつけるように声をふるわせる。以前訪れたことのある人には見慣れた景色であった。しかし初めての人たちは驚いた様子で、どう反応してよいかわからないようであった。ひとしきり歌った後、愛犬ポアロは立ち上がり、妻の方へ歩いていった。曲が終わったとき、観客は、一斉に拍手をした。しかしこの拍手が、演奏に対するものか、ポアロの歌声に対するものか、両者に対するものか、わからなかった。

犬は人間の言葉をしゃべることはできない。声をだすと言ってもオオカミの遠吠えのようにただ吠えているだけのようにも聞こえる。しかし曲にあわせて、間違いなく歌っている。ピアノの演奏によって引き起こされた何らかの感情の発露が感じられた。

ひとは、むかしむかし言葉をもたないころ、犬のような声をだしていた。ジャングルでオオカミに育てられた子供がオオカミのような声をだしたという。言葉を持つ人間のような発声はできなかったかもしれないが、その声には、歌と同様に、音によって伝達するバイブレーションがあり、何かを他の生き物に伝える役割を果たしていたのであろう。

歌うという行為によって、人はストレスを解消したり、感情を伝えたりすることができる。しかし、この行為はひと固有のものではなく、どの生物でも持っている感情表現なのである。ポアロは、ただピアノの音色に反応して、歌っただけにすぎない。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

ポケモン GO

ポケモン GO が、ついに日本でも発売となった。私は、この存在を全く知らなかった。ところが、いつだったか妻が CNN を見ていて、「ポケモンが海外ですごいことになっているので、任天堂の株を買ってもいい?」というではないか?私には何のことかわからなかったが、とりあえず賛成しておこうと考え、「いいんじゃない。」と、返事した。その日の夜から、日本でもニュースでポケモンの過熱ぶりが報道されるようになった。翌日も任天堂の株価はどんどんあがり、私はこれはすごいことになった(つまり儲かった)と思った。ところが、出入りの証券会社が、あまりすすめなかったらしい。結局、妻は、任天堂ではなく、全然別の株を買っていたのである。このような1、2日にわたる株騒動もあったので、ポケモン GO には大きな関心を持っていた。そうこうしているうちに、今週になって日本でも発売となったのである。私も、上記の理由で関心があったので、自分でもやってみようと思った。私は、iphone を使っている。App store からダウンロードしなさい、ということなので、試みた。すると、iOS8 にアップデートしなさい、という指示がでた。しかし、メモリーが不足しており、メモリー確保のために、まず必要がないソフトを削除することになった。次に wifi 環境が必要とのことであった。我が家は、無線 LAN であり、自動的に wifi になるのかと思っていたが、どうもうまくつながらない。ルーターにあるパスワードを入れてはじめてつながった。ここで、やっとダウンロードの準備ができたのである。ダウンロードを行った。ちょっと時間がかかったがわりとスムーズである。さあ、これでポケモン GO スタンバイである。しかし、ここで最後の難関が待っていた。ポケモン専用のパスワード、ID が必要なのである。これらを手に入れるために、一晩待たされることになった(ポケモン開始と同時に多くの人が殺到したのであろう)。翌日午後、これらを手に入れ、やっとポケモン開始である。地図に従って歩きながら、ポケモンが登場すると、カメラに切り替わり、ボールを使ってポケモンを捕獲するようである。仮想空間と現実とが融合し、ゲームとなっている。今のところ、この程度しかゲームの詳細はわからない。しかし、ポケモンという以前爆発的にヒットしたキャラクターを使って、現代風にアレンジした、ということであろう。古い知財を捨ててしまうのではなく、現代風にアレンジし再利用した、よい実例と思うが、このようにすると容易にグローバルマーケットを支配できるということである。ところで、これだけ話題になっているのに、私の妻は「私にはポケモンのことは話さないで」という。どうも任天堂の株を買い損ねた、自分にお怒りのようである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

記憶に残る痛み?

私はこれまでさまざまな痛みを経験してきた。体の、である。たとえば、今年に入って、私はアキレス腱断裂による足の痛みを経験した。どこかのブログでふれた通りである。7月に入って、ようやく普通に歩けるようになってきた。5月までは快方に向かう雰囲気があまり感じられず、このままテニスができなくなるのかな?と悲観した時期があった。しかし、あるリハビリのようなことをきっかけにめきめきとよくなっていく実感が得られるようになった。動物が裸足で地面を蹴るときのように、裸足で地面を力強くグリップする動作を繰り返し行ったのである。どうもこの動作がアキレス腱周囲の筋トレとして有効であったようである。考えてみると、これまでに経験した大きな体の痛みは、三叉神経痛と膝靭帯断裂である。三叉神経痛では数年間痛みに悩まされた。顔中を針で刺されるような痛みが走るのであり、ひどいときには地面を転げ回るような痛みであった。いろいろな治療をやったし、ハリ治療もやった。おかげて、ハリ医者に教えてもらい、自分でハリをうてるようになった。ハリを顔中にうつのである。場合によっては口の中からもうつ。ハリネズミ状態である。ほんのひとときではあるが、うとうとと眠ることができた。このような断片的なことは記憶しているのであるが、実際どのようなものであったか、今となってははっきりとした体の記憶が残っていないのである。今でも三叉神経痛の兆候があることはあるが、予防ノウハウが身に付いているので、知らずに消えていくのである。左ひざの靭帯断裂のとき、もちろんテニスでやったのであるが、数ヶ月間ギブスであった。完全断裂であったので、本来ならオペとなるのであろうが、その時の主治医が「先生、もうお年なのでオペをやらないほうがーーー」と私にムンテラし、私はそれもそうだ、と思ったのであろう。オペをやめて、保存的治療ということで、ギブスとなったのである。その後いろんな先生に聞いたら、「なぜ先生まだ若いのにオペをやらなかったのですか?」と、いうではないか?考えてみると、靭帯の再建手術は、整形外科の中でもスポーツ外傷を扱う靭帯再建専門の医者が行うのが通常である。私は、専門分野が異なるが、再建縫合は結構難しいのではないか?という思いがあったし、同時に担当医も何となく自信がなかったのであろう。そこで、保全的治療という、固定して、自然治癒を待つ古典的方法で、お互いの思いが一致したのであろう。もし私がどうしてもオペを主張していたら、異なる展開になっていたかもしれない。いずれにしても保存的治療を選択することで、長い長いリハビリ生活と痛みとの戦いが始まったのである。しかし、そうはいっても、その後どのような大変なリハビリ生活を行ってきたか、いまではあまり覚えていないのである。非常につらい思いをしたはずではあるが。このように、体に感じた痛み、というのは結局あまり記憶に残らない。確かつらい思いをしたねえ、という程度であり、論理的に振り返ることはできるが、その痛みを再現させることは不可能である。ひとのからだは、このように過去を忘れ、現在を受け入れるように、都合良くできているのである。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

横になるカフェ?

最近、———カフェというのがはやっているという。病気と関係するものとしては、認知カフェとかがんカフェがある。どちらも患者さんが集まって、コミュニティーを作り、情報交換したり、ゆっくり過ごしたりするところらしい。もともと、カフェというのは、コーヒーという意味で、そこからコーヒーなどを飲みながら新聞や雑誌を眺めたり、時の話題について談笑し、情報交換のできる場、という意味になった。パリのカフェというと、歩道にせり出してテーブルと椅子が置かれており、そこでエスプレッソが出てくるのが定番である。エチオピア発祥らしいが、ヨーロッパだけではなく、イスラム圏でもあり、トルココーヒーなるものも存在する。パリの他には、イタリア ベネチアにあるカフェフローリアンとかカフェクアードリが有名である。日本でも明治時代銀座に開業したカフェプランタンはよく知られている。

ところが、病気カフェは、別にコーヒーを飲ませ、お金をいただくのが目的ではなく、あくまで情報交換の場、であり、病気という共通認識があるのが前提となる。私もここのクリニックで、何かカフェのようなものができないかと考えた。大前提として、お金をいただくものではなく、なにがしか医療と関連のあるもの、ということがある。病気があるかどうかは別として、不特定のひとたちがカフェで共通の時間をすごすわけであるから、なにか共感を得ることができる事柄が発生するほうがよい。情報交換の場を作るのはどうか、と考えたが、今あるコンテンツで何が活かせるのか考えた。このクリニックは、淡い色のフローリング(部分的に濃い色が混じる)が広がっており、全部で10人程度が、人工池と噴水を眺めながら、座れるようになっている。真ん中にペッパーがいて、ガラスばりの窓の真ん中に、親子のラクダの人形がいる。端っこに、ヤマハのエレクトリックグランドがオブジェのように置いてある。壁には、古井戸さんという画家さんの絵(不思議な絵である)が数枚画廊に展示されているように、掛けられている。この広いフローリング空間を生かすことを前提として、座禅、ヨガ、瞑想、香道、茶道、など考えた。どれもこれも何らかの技術を必要とするので、何か特別なことを行うのではなく、ただ横になることとした。その中で、ネーミングをどうするか、ということで、「横になるカフェ」、にしようということになった。クリニックは、12時から15時まで空間を使用していないので、まずは火曜と木曜の12:30から14:30までの2時間をカフェタイムとすることにした。「横になるカフェで癒しませんか?」、横になりたい人は、自分でマットを持参し、ただただ横になってもらうのである。

この構想については、まだ職員さんたちは知らないので、具体的に始まるのは、もう少し先となるであろう。開始が決まったら、クリニックホームページでプレスリリースいたします。

クリニック ちくさヒルズ 院長
林 衆治

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